タイの財務省が、所得が一定の基準に満たない低所得者に対し、税金を取る代わりに国が現金を給付する「負の所得税(ネガティブ・インカム・タックス、NIT)」の導入を進めている。2027年の開始を目標に掲げる、数十年で最も野心的ともいわれる福祉制度の大改革である。仕組みそのものはシンプルで、所得が課税の最低ラインを下回る人には、確定申告を通じて国から給付金が支払われる。裏を返せば、給付を受けたい人は全員、税務申告をする必要があるということだ。
「負の所得税」とは何か
通常の所得税は、収入が一定額を超えた人がその一部を国に納める仕組みだ。負の所得税は、この発想を下方向に延長する。収入が課税ラインに届かない人については、税を納めさせる代わりに、国が不足分を補うかたちで現金を給付する。「マイナスの納税」という呼び名はここから来ている。
タイがこれを目指す狙いは、ばらまき型の福祉から、所得に応じた精密な支援へと切り替えることにある。誰がどれだけ困っているのかを所得データで正確に把握し、本当に支援が必要な人に的を絞って配る。そのために、給付を望む人には税務申告を求める。結果として、これまで課税最低限以下で申告をしてこなかった膨大な層が、税の網に「見える化」されることになる。
2027年導入へ、整えるべき3つの土台
財務省は、向こう2年ほどで福祉制度を負の所得税の仕組みへ移行させる構えだ。ただし、実現には大きく3つの前提が要る。第一に、国民の所得や福祉、納税の情報を束ねる大規模なデータ基盤である。すでに「データレイク」と呼ばれる統合データベースの整備が進み、現時点で6,080万人と約60万の事業者の情報を網羅するまでになっている。
第二に、給付対象者を選び出す審査の仕組み。第三に、これらを支える技術インフラだ。誰に、いくら配るのかを自動で判定するには、所得を正確に捕捉する基盤が欠かせない。制度の成否は、この土台づくりにかかっている。
福祉カードの「選別」強化が第一歩
負の所得税に向けた現実の動きは、すでに始まっている。財務省は、低所得者向けの「国家福祉カード」の受給資格の見直しに着手した。これまで1,300万〜1,400万人が保有していたが、より厳しい基準を設け、「本当には貧しくない」人をふるい落とす狙いだ。保有者には改めて登録・確認の手続きが求められている。
この選別をめぐっては、給与所得者にも影響が及ぶなど、現場で少なからぬ混乱も生じている。とはいえ、誰が支援を必要としているのかを所得で見極めるこの作業は、負の所得税のデータ基盤づくりそのものでもある。福祉カードの厳格化は、大改革への入り口に位置づけられる。
なぜ注目されるのか、日本との違い
負の所得税が画期的とされるのは、福祉と税を一つの仕組みに統合し、所得という客観的な物差しで給付を決める点にある。タイは納税者の裾野が狭いことが長年の課題で、給付を受けるために申告を促すこの制度は、税の捕捉率を高める効果も見込まれている。政治的にも、これはタクシン派の流れをくむタイ貢献党(プアタイ)が以前から掲げてきた看板政策で、党の元財務副大臣も推進を歓迎している。
日本では、生活保護などの福祉と、所得税の仕組みは別々に運用されており、「給付を受けるために全員が税務申告をする」という発想は薄い。低所得層に国が現金を配る制度自体は各国で議論されてきたが、それを税と一体で本格導入しようとするタイの試みは、実現すれば世界的にも珍しい大規模な実例となる。2027年という目標に向け、データ基盤と福祉カードの選別がどこまで進むかが、当面の焦点になる。