欧州連合(EU)が5月18日、タイ国籍の住民を対象とするシェンゲンビザの新ルールを発表した。「ビザカスケード(visa cascade)」と呼ばれる新方式で、過去のビザ使用歴に応じて段階的に有効期間が延びる仕組みになり、最終的には最大5年間有効・複数回入国可能のシェンゲンビザが取得できる。タイ人観光客のヨーロッパへの繰り返し旅行を促す狙いで、適用対象はシェンゲン圏29ヶ国に渡る。
タイ国内では、これまでヨーロッパに繰り返し行くたびに毎回ビザ申請をしなければならず、申請料・書類準備・面接予約待ちの負担が大きかった。今回の変更は、その実務的なハードルを一気に下げることになる。
ビザカスケードの仕組み
新制度の段階構造はシンプルだ。最初の更新時に1年有効、次のステップで2年有効、その次で最大5年有効、というように、ビザ取得歴と適正使用実績を積み上げるごとに有効期間が延びる。
適用の前提となるのは次の4点。
- タイ国内に居住するタイ国籍者
- 過去2年以内にシェンゲンビザを取得し、適正に使用した実績
- 違法滞在やオーバーステイの履歴がないこと
- 遵法的な旅行記録
一度でも違法滞在を記録した人は、原則として上位カテゴリに進めない。
シェンゲン圏は、EU加盟国25ヶ国にアイスランド・リヒテンシュタイン・ノルウェー・スイスを加えた合計29ヶ国。発給された5年ビザは、この29ヶ国を自由に行き来できる扱いになる。
なぜEUが今このタイミングで動いたか
EUがビザ規則を緩めるのは異例。2024年以降、ヨーロッパは欧州各国で観光業の人手不足、域内消費の停滞、対アジア観光客の取り込みで日韓に押され気味、という構造課題を抱えてきた。
EU統計局によると、タイから欧州へ向かう観光客は年間70万人前後で推移していて、コロナ前のピーク(2019年)を完全には回復していない。ただし1人あたりの平均旅行支出はアジア圏で見ると比較的高く、リピーターになりやすい層が多い。EUは中国・インドより先にタイ・マレーシア・フィリピンの中所得国層を狙って制度を緩めた、という構図だろう。
タイ政府側にとっても、海外旅行ハードルが下がることは家計の海外消費が増える方向ではあるが、観光収支の輸出収入を増やしたいタイ国内では、「タイ人観光客が欧州に出ていくのは結構だが、欧州から戻ってくる送客が同じくらい増えてほしい」というのが本音だ。今後、タイ→欧州だけでなく欧州→タイの観光促進策が連動する可能性がある。
日本人在住者・タイ人家族への実務的影響
タイに住む日本人の生活圏で、この変更が効いてくるのは大きく2つの場面がある。
ひとつはタイ人配偶者・パートナー・子供を欧州旅行に連れて行くケース。これまで毎回シェンゲンビザを取り直していた家族なら、最初の1年→2年→5年の段階を踏むだけで、その後はビザの心配なしに欧州旅行・出張帯同が組める。配偶者ビザ別途取得とは別ルートなので、結婚前のパートナーでも対象になりうる。
もうひとつはビジネスでタイ人スタッフを欧州へ出張・研修に出すケース。タイの製造業・観光業・IT業ではタイ人マネージャーを欧州工場・本社へ年に複数回派遣する事業者がいるが、これまで毎回ビザ取得が必要だった。5年カスケードまで上がれば、出張稟議は組みやすくなる。長期的には、タイ拠点で働くタイ人スタッフのヨーロッパ研修コストが下がる。
日本人個人としては、もちろん日本国籍はシェンゲンビザ免除なのでこの変更は直接関係しないが、家族・パートナー・職場のタイ人スタッフへの波及で間接的に恩恵を受ける形になる。
カスケードの限界とリスク
便利な制度だが、利用上の注意もある。
5年ビザを取得しても、シェンゲン圏内の滞在ルールは従来通り「180日のうち最大90日」のまま。「5年間ずっと住める」わけではなく、「5年間ビザの取り直しが不要になる」だけだ。長期滞在には別途の居住許可(National Visa)が必要になる。
また、過去のビザ使用歴がない人は初回1年スタートに入れない可能性が高い。タイで「シェンゲンビザを初めて取る」場合は、まず短期ビザを申請して適正使用実績を作り、次の申請で1年ビザにステップアップする、という運用になる見込みだ。
そして「適正使用」の定義は今後EU側のガイドラインで詰められる。シェンゲン圏に入ったあと別国に長期滞在した、不法就労を疑われた、といった記録が残ると、次回ステップアップで却下される可能性がある。
関連する地域動向
ヨーロッパ各国のビザ運用は近年、タイ・東南アジア向けに変化を続けている。スイスは2024年からタイ人客向けにオンライン申請を全面導入。ドイツは2025年に商用ビザの審査を効率化、フランスは2026年初頭からシェンゲンビザの申請料を据え置きで継続。今回の全体としてのカスケード導入は、これら各国の流れを統一フレームに落とし込んだ形と言える。