バンコクのシーロム通りの裏手にタニヤ通りがある。300メートルほどの小さな通りに、日本語のネオン看板が並ぶ。1970年代から半世紀にわたり「バンコクのリトル東京」として機能してきた場所だ。
2025年3月、この通りに中国系KTV(カラオケ店)が初めて出店した。既存の日本人向けカラオケ店の一部はオーナーが中国系に代わり、嬢のLINEアカウント名が日本語から中国語や韓国語に変わった店もある。新しくできた店は「中国や韓国からの旅行客向けで、日本人にはおすすめできない」と現地メディアが報じている。
タニヤの変容は、日タイ関係の力学が変わったことの縮図だ。
180万人が80万人になった
2019年、タイを訪れた日本人は約180万人。タイにとって6番目に大きい市場だった。
コロナで国境が閉じ、2022年に再開した後も日本人は戻らなかった。2023年の訪タイ日本人は約80万人。コロナ前の44%だ。2024年は約100万人まで回復したが、それでもピーク時の55%。タイ観光庁(TAT)は「日本人の訪タイが2019年の水準に戻るにはあと2年かかる」と見込んでいる。
同じ時期に何が起きていたか。2023年、タイから日本を訪れたタイ人は99.5万人に達し、日本人の訪タイ80万人を約20万人上回った。日タイ間の観光人口が史上初めて逆転した瞬間だ。2024年のタイ人訪日は115万人、2025年上半期だけで68万人。ASEANからの訪日数で1位を維持している。
「日本人がタイに遊びに来る」から「タイ人が日本に遊びに行く」へ。構造が反転した。
なぜ円は安くなったのか
この逆転の最大の要因は為替だ。ただ「円安だから」で終わらせると本質を見誤る。
2022年以降、米連邦準備制度(FRB)がインフレ対策で政策金利を0.25%から5.5%まで急速に引き上げた。一方、日本銀行は大規模な金融緩和(ゼロ金利・国債買入れ)を維持した。この金利差が資金を円からドルに流出させ、円は2022年だけで約30%下落した。
2024年3月に日銀はマイナス金利を解除したが、米国との金利差は依然として大きい。根本にあるのは日本の公的債務がGDP比206%(先進国最大)に達しており、金利を大幅に上げれば利払い負担で財政が破綻するリスクがあるという構造問題だ。円安は一時的な現象ではなく、日本経済の体質から来ている。
5年前、1バーツは約3.3円だった。今は4.3〜4.5円。同じ1万バーツを手に入れるのに33,000円で済んだものが、43,000円必要になった。タイ人にとって日本は2割安くなり、日本人にとってタイは2割高くなった。
スタバはタイの方が高い
数字の話だけでは実感が湧かないので、具体的に比べてみる。
| 品目 | バンコク | 東京 |
|---|---|---|
| スターバックス ラテ(トール) | 155バーツ(約670円) | 490円 |
| マクドナルド ビッグマックセット | 247バーツ(約1,060円) | 750円 |
| セブンイレブン おにぎり | 39バーツ(約168円) | 150円 |
| 映画チケット | 280バーツ(約1,200円) | 1,900円 |
| タクシー初乗り | 35バーツ(約150円) | 500円 |
グローバルチェーンの価格はタイの方が高い。タクシーや映画はまだ安いが、差は縮まっている。外国人向けの家賃、インターナショナルスクール、私立病院の診察料はバンコクと東京で大差ないか、バンコクの方が高いケースもある。
「タイは物価が安い」が通用するのは、ローカル食堂の40バーツのカオマンガイと屋台のパッタイだけだ。
タニヤだけではない — パタヤ、東部工業地帯の変化
変化はバンコクの夜の街だけで起きているわけではない。
パタヤでは2024年に2,815万人の国際観光客を記録し、国籍別のトップ5は中国、マレーシア、ロシア、韓国、インド。日本は圏外だ。Pattaya Mailは「かつて欧米人で賑わったビーチが、中国・インド・ロシア・韓国の観光客に置き換わっている」と報じている。インド人観光客は2025年上半期だけで118万人がタイを訪れ、前年比13.8%増。パタヤではウェディングツーリズムやナイトライフで存在感を増している。
東部のチョンブリやラヨーンでは、中国系自動車メーカーの工場進出が加速している。BYDは2024年7月にラヨーンに年産15万台の工場を稼働させ、約1万人の雇用を支える。長城汽車(GWM)は年産8万台、MG(SAIC)はチョンブリに1,000人以上を雇用。GAC Aion、Chery、Changan、Hozonも次々とタイに生産拠点を置いた。
2024年6月にはBYDがタイでホンダを抜いて販売台数2位に浮上した。中国系メーカーの進出は観光客としてではなく、工場労働者・技術者・マネージャーとして中国人がタイの地方都市に定住する流れを生んでいる。
在留邦人は7万人を割り込んだ
外務省の統計によると、タイの在留邦人は2021年の82,574人をピークに減少を続け、2024年10月時点で70,421人。3年で1.2万人以上が減った。
内訳を見ると、長期滞在者(駐在員とその家族)が67,867人で前年比2.9%減。民間企業の労働許可証保有者は2014年の35,136人から2023年には24,230人へ、10年で1万人以上減っている。
背景には「日本企業がタイ人マネージャーを登用し、駐在員を送らなくなった」という構造変化がある。円安で駐在コストが上がり、タイ側の人材が育ったことで、わざわざ日本人を送る理由が薄れた。ベトナムやカンボジアへの生産シフトも影響している。
かつてバンコクの在留邦人ランキングで日本は長年トップだったが、中国人駐在員が急増し、日本人は現在6位にまで後退している。
「親日」は変わっていない、変わったのは経済力
誤解しないでほしいのは、タイ人の対日感情は依然として良好だということ。各種調査で日本への好感度は90%を超え、日本食レストランは6,000店以上。「親日国」としてのタイの位置づけは変わっていない。
変わったのは「好き」の意味だ。かつては「日本人=お金持ち=上客」だった。今は「日本=旅行先として安い=行きやすい国」になった。好意の方向は同じだが、経済的な力関係が反転した。
タイの1人あたりGDPは約7,500ドル、日本は約34,000ドル。名目では4.5倍の差がある。だが購買力平価(PPP)で見ると、タイは約21,000ドル、日本は約52,000ドル。差は2.5倍に縮まる。バンコクの中間層がユニクロを着て、スタバでコーヒーを飲み、年に1回日本旅行に行く生活は、東京の中間層の日常と重なる。
タニヤの看板が教えてくれること
タニヤ通りの看板が中国語に変わり始めたことは、嘆くべきことではない。経済の力学が変われば、街が変わる。それだけだ。
ただ、この変化を見て見ぬふりをすべきではない。「タイは安い」「日本人は特別」という前提は、もう現実と合わない。タイに住む日本人も、旅行で訪れる日本人も、この国との付き合い方を更新する時期に来ている。
在タイ10年。最近タイ人の友人に「日本って今すごく安いよね。今度の連休に北海道行くんだ」と言われた。返す言葉がなかった。

