毎年のように原油価格が上がるたびに、タイではディーゼル価格が政治問題になる。2026年4月にはリッター50バーツを突破した。しかしこの問題は「原油が高いから燃料が高い」という単純な話ではない。タイの燃料価格の裏には、数十年にわたる構造的な矛盾が積み重なっている。
石油基金という「魔法の財布」の仕組み
タイの燃料価格を理解するには、石油基金(Oil Fuel Fund)の存在を知る必要がある。
1973年のオイルショックを機に設立されたこの基金は、2019年に「石油基金法」として法制化された。仕組みはシンプルだ。国際原油価格が安い時期に、国内で販売される燃料1リットルあたり数バーツを徴収して積み立てる。価格が高騰した時には、その積立金を使って補助金を出し、小売価格の上昇を抑える。
一見合理的なシステムだが、致命的な弱点がある。「安い時に貯める」フェーズを、歴代の政権が政治的に実行できないのだ。
繰り返される「補助金→赤字→値上げ」のサイクル
石油基金の歴史は、赤字と回復の繰り返しである。
2004〜2005年(タクシン政権): イラク戦争に伴う原油高騰で、タクシン政権は920億バーツを燃料補助に投じた。当時の石油基金史上最高額だった。最終的に2005年7月、ディーゼルは22.49バーツ/Lまで上昇し、価格統制を断念した。
2022年(プラユット政権): ロシア・ウクライナ戦争で原油が高騰すると、プラユット政権はディーゼルを30バーツ/L以下に抑える方針を取った。毎月約200億バーツが流出し、2022年12月25日には赤字が1,231億バーツに達した。うち790億バーツが燃料補助、441億バーツがLPG補助で、石油基金史上最大の赤字記録として残っている。
2026年(アヌティン政権): 2月28日の米国・イスラエルによるイラン攻撃を受け、ホルムズ海峡が事実上の封鎖状態に。ブレント原油は126ドルまで急騰した。Bloombergは「タイの石油基金は1日3,200万ドル(約26億バーツ)を燃やしてディーゼル価格を抑えている」と報じた。3月22日時点で赤字は281億バーツに膨らみ、4月初頭には500億バーツに迫った。
パターンは毎回同じだ。危機が来る→基金で補助→赤字が膨らむ→限界に達して値上げ→国民が怒る→次の政権も同じことをする。
なぜタイは原油高に弱いのか — 輸入依存率80%の現実
タイは日量約137万バレルの石油を消費するが、国内生産は約42万バレルに過ぎない。差し引き約70〜80%を輸入に依存している構造だ(IEA、Worldometer)。しかも国内産原油は重質油が多く、タイの製油所が処理しやすい軽質油は中東からの輸入に頼っている。
つまり、ホルムズ海峡が止まるとタイは二重の打撃を受ける。価格が上がるだけでなく、物理的に原油が届かなくなるリスクがある。
タイには6つの主要製油所があり、PTTグループ(タイオイル、IRPC、PTT GC)とバンチャックが合わせて日量約77万バレルの精製能力を持つ。ただし精製能力があっても原油が入ってこなければ意味がない。
精製マージンという「もう一つの問題」
2026年の燃料危機では、もう一つの構造的な問題が浮上した。精製マージン(リファイニングマージン)だ。
タイのガソリン小売価格は、原油コスト+精製マージン+税金+石油基金徴収/補助で構成される。このうち精製マージンは5年平均で1リットルあたり2.43バーツとされるが、2026年3月には約13バーツに跳ね上がった。つまり製油所は原油高の中でも巨額の利益を上げている可能性がある。
野党議員が国会で「3か月前に仕入れた安い原油で精製した燃料を、今日の高値で売っている」と告発したのはこの構造を指している。エネルギー省は精製マージンの内訳調査チームを設置したが、製油所側は「マージンにはヘッジコストや在庫リスクが含まれる」と反論しており、構造の透明化はまだ道半ばだ。
密輸ネットワーク — 補助金がカンボジアとミャンマーに流出
価格統制がもたらす副作用として、燃料の密輸が深刻化している。
タイ国内の補助金で安く抑えたディーゼルが、カンボジアやミャンマーに密輸される。DSI(特別捜査局)の調査では、スラタニー県向けに出荷された2億1,700万リットルのうち、倉庫に届いたのは1億6,000万リットル。5,700万リットルが輸送中に消失した。
タイ海軍は不審なタンカー20件の航行パターンを確認。遅延、洋上での船舶間移送、経路の不自然な変更という3つの手口が特定されている。Bloombergは「タイの首相が『悪しき』燃料密輸業者を取り締まる」と報じ、カンボジアのフン・マネット首相も「タイからの燃料密輸に関与した業者の免許を取り消す」と宣言した。
補助金で価格を歪めれば、その歪みで利益を得ようとする者が現れる。これは経済学の教科書通りの帰結であり、価格統制を続ける限りなくならない問題だ。
3段階の危機対応計画
2026年4月、タイ政府は燃料危機に対して3段階の対応計画を策定した。
| レベル | 条件 | 対応 |
|---|---|---|
| レベル1(現在) | 原油100〜130ドル | 石油基金による補助、物品税減税、B20ディーゼル推奨 |
| レベル2 | 原油130〜150ドル | 燃料配給制の検討、公共交通への重点配分 |
| レベル3 | 原油150ドル超 | 燃料配給制の実施、不要不急の使用制限 |
石油基金には1,500億バーツの信用枠があるが、現在の消費速度では約2か月で枯渇する計算になる。政府が国債保証に踏み切れば、タイの公的債務比率はGDP比70%の法定上限に接近する。
構造改革はなぜ進まないのか
The Diplomatは「タイの石油ショックに対する防御は脆弱だ」と指摘し、構造的な改革が進まない理由を3つ挙げている。
- 政治的コスト: 燃料値上げは直接的な生活コスト上昇であり、選挙を控えた政権は踏み切れない
- LPG補助の聖域化: 調理用LPGの補助金は数十年にわたりどの政権も手をつけられていない「聖域」になっている
- 製油所の政治的影響力: PTTは国営企業であり、精製マージンの透明化は政府内の利害と衝突する
Nation Thailandは社説で「価格統制と債務蓄積の悪循環を断ち切れるかどうかが、今後数十年のタイ経済を左右する」と論じている。
タイ在住・渡航予定の方へ
燃料価格の高騰は、タイ経済のあらゆる層に波及している。
- 交通費: Grab・タクシーの料金が上昇。地方では公共交通(ソンテウ、バス)の運行本数が激減している地域がある
- 物価: 食品、飲料水、日用品の価格が5〜10%上昇。屋台やフードコートの価格も上がっている
- 航空券: LCC各社がソンクラーン後に減便を検討しており、国内線チケットの早期予約が推奨される
- レンタカー: ディーゼル車の燃料費が1か月前の1.5倍に。地方旅行では事前に燃料費を計算に入れる必要がある
燃料価格の最新状況は、タイ・エネルギー事業局(DOEB)のウェブサイトまたはPTTアプリで確認できる。

