タイ人の手だけで作り上げた科学実験装置が、いま国際宇宙ステーション(ISS)の上で動いている。操作するのはバンコクの研究室。地上と宇宙をつなぐ遅延はわずか1.2秒だ。狙うのは、無重力で液体がどう混ざり合うのかという60年来の謎を解き、将来の創薬につなげること。5月29日には、ヨットチャナン副首相兼高等教育・科学研究イノベーション相がチュラポーン王立アカデミーを訪れ、その稼働を生で見届けた。タイにとっては、宇宙開発の実力を内外に示す節目の挑戦である。
名刺サイズに収めた「宇宙の実験室」
プロジェクトの名は「TIGERS-X」。チュラポーン王立アカデミーが進める宇宙実験計画だ。核となるのは、医療実験室をまるごと名刺ほどの大きさのチップに収める「ラボオンチップ」という技術である。実験装置一式も、ノートパソコン1台分のサイズにまとめられた。宇宙への輸送はわずかな重量差がコストに跳ね返るため、この小ささそのものが大きな武器になる。従来であれば大がかりな装置と大量の試薬が要った実験を、手のひらに載るサイズへ凝縮した格好だ。装置の設計から製造まで、すべての工程をタイ人が手がけた点を、関係者は繰り返し強調した。
マヨネーズと宇宙、60年来の謎
実験の目的は「乳化(エマルジョン)」という現象の解明にある。水と油のように本来は混ざり合わないもの同士が、重力のない環境ではどう混ざるのか。これは宇宙開発が始まった約60年前から科学者を悩ませてきた問いだ。身近な例で言えば、ドレッシングやマヨネーズを作るときに乳化剤で水と油をなじませるのと同じ理屈である。地上では重力に隠れて見えにくい現象も、宇宙という特殊な環境でこそ正確に観察できる。無重力で得られる分子レベルのデータは、医薬品や医療用食品の開発の土台になり、将来は臓器を模した「オルガンオンチップ」のような高度な研究への足がかりにもなるという。
バンコクから1.2秒で宇宙を操作
今回の目玉は、地上からの遠隔操作システムだ。研究者がバンコクの装置のボタンを押すと、同じ指令が「ニアスペースネットワーク」を介して即座にISSへ送られる。その遅延はたった1.2秒。結果はFTPサーバー経由の映像でリアルタイムに地上の画面へ戻ってくる。コンピューター1台あれば地球上のどこでも管制室になる、という身軽さだ。宇宙飛行士に頼らずに実験を進められるため、人手もコストも大幅に抑えられる。限られた予算で宇宙研究に挑むタイにとっては現実的な戦略でもある。システムは5月26日から本格的に稼働している。
タイが描く「宇宙経済ハブ」
この計画が映し出すのは、タイという国の準備の進み具合でもある。宇宙産業向けの部品は国内企業のもので100%まかなえ、国内の試験施設はNASA基準の90%の水準を、はるかに安いコストで満たせるという。タイは地域の「新宇宙経済」の中心になれる、というのが当局の自負だ。実験データは公開ダッシュボードで誰でも無料で追える形にした。宇宙を一部の専門家だけのものにせず、若い世代に「タイ人にもできる」と感じてもらいたいという思いも背景にある。装置はすでに軌道上にあり、今後はここで得られるデータを足がかりに、より複雑な研究へと広げていく構想だ。