タイには「徴兵くじ」というものがある。毎年4月、21歳になった男性が各地の検査会場に集まり、最後の選抜を箱から札を引いて決める。赤い札を引けば兵役2年、黒い札を引けば免除。家族が応援に駆けつけ、赤札の瞬間に母親が崩れ落ち、黒札の瞬間に寺へ駆け込んで願掛けを解く若者がいて、毎年4月のタイのSNSはこの話題で賑わう。日本人がタイで暮らしていると、職場のタイ人スタッフから「来週くじを引きに行ってきます」と切り出されることが時折ある。聞き慣れない制度なので、ここで一度整理しておきたい。
タイの徴兵は、憲法と1954年制定の徴兵法に基づく、男性のみの兵役義務である。21歳のタイ人男性全員に検査通知が届き、毎年4月1日から12日のあいだに郡庁舎・公民館・学校などの会場で実施される。陸軍・海軍・空軍が全国で連携し、身体測定、健康診断、面接ののち、その日のうちに入隊が決まる。2024年に憲法改正で制度見直しの議論があったけれど、2026年現在もくじ引き方式が続いている。
21歳の年が来ると何が起きるか
対象は2026年で言えば2005年生まれが中心になる。これまで未受検の22〜29歳(1997〜2004年生まれ)も対象に含まれる。海外在住のタイ人、二重国籍を持つ若者も、条件次第で対象に入る。大学や専門学校に在籍中であれば在籍証明書の提出で延期できて、卒業後にあらためて検査を受ける段取りだ。
検査の流れはおおよそ次のようになっている。前年の11月から12月にかけて、対象者に兵役通知書(สด.35)が届く。指定された地区の会場に4月1日から12日の間に出頭し、身体検査を受ける。検査では4段階の等級に分けられ、等級1と等級2が徴兵対象、等級3はその年は不適で要再検査、等級4は永久免除となる。等級1・2に振り分けられた者の中から、まずオンラインで事前に志願していた人が枠を埋める。それで足りない場合に、残った対象者全員が札を引く。
2026年は対象者全国で約47万7,000人。軍が必要とする兵員数約8万4,000人のうち、オンライン志願は2万8,209人で達成率105.9%、過去最多である。残る約6万2,000人の枠は、各地区のくじ引きで決まる構図になった。
赤札・黒札、確率はその場の人数で決まる
くじ引きの確率は、その地区の対象人数と必要徴兵数で変動する。30人が残っていて、まだ10人徴兵する必要があれば、箱の中は赤札10枚、黒札20枚。確率は3分の1である。地区によっては赤札の比率が極端に高いところもあれば、逆にほぼ黒札の場所もある。
引く瞬間は劇場のような空気になる。1人ずつ箱に手を入れて、引いた札はその場で開いて全員に見せる。家族と友人が会場の外側でぎっしり並び、赤札なら悲鳴、黒札なら歓声が上がる。2026年4月にはウタイターニー県タップターン郡で若い僧侶が赤札を引き、応援団のうち3人が猛暑のなか失神するという出来事もあった。アーントーン県では黒札を引いた若者が約束していた願掛けを果たすため、寺の境内で全裸で走り、鍋を叩いて回ったという話がバイラルになった。
「僧侶なら自動で免除」は誤解
免除には条件がある。等級4と判定される身体上の理由(身長155cm未満、極端な低体重・高体重、心疾患、てんかん、統合失調症など)、既婚・子持ち、家族の唯一の働き手、高校3年間でROTC(予備役学生課程)を修了した者、警察学校・刑務官学校等の特定機関卒業者、性別違和の医師診断書を提出したトランスジェンダー、そしてパーリ語仏教学のナクタム3級以上を取得した僧侶、というあたりが代表的だ。
僧侶については「出家していれば自動的に免除」と思われがちだけれど、そうではない。ナクタム3級以上の仏教学位がなければ徴兵対象のままで、若い僧侶が赤札を引くケースは毎年起きている。
志願制度を選ぶ若者が増えた
2026年は過去最多の志願率(達成率105.9%)を記録した。志願すれば、配属先(陸軍・海軍・空軍・憲兵等)の希望が一定通り、給与・福利厚生がやや厚く、警察や公務員試験のときに有利な評価を受けることがあるという。何より、当日になって札を引かされる精神的なプレッシャーから解放される。
この志願率の高さの背景には、若年雇用環境の悪化と、軍側が福利厚生を底上げしてきた事情がある。「行きたくないけれど引くのは怖い」から「どうせ行くなら条件の良いほうを選ぶ」へ、若者の判断基準が動いているらしい。
ノンタブリー県サイノイ郡では、2026年4月に志願者だけで枠が埋まってしまい、くじ引き自体が不要になった。バンコク隣接県でこういうケースが出るのは、ひとつの時代の変わり目とも言える。
兵役期間中、何をするか
通常の兵役期間は2年、ROTC修了者や志願者は1年に短縮されることがある。基本給は2026年時点で月1万バーツ前後(約4万円相当)。宿舎・食事・制服は支給され、週末は外出可能なケースが多く、家族との連絡も自由だ。配属先によっては国境警備、王宮警備、災害救援、公共インフラ整備の現場に立つことになる。
毎年4月のタイで、これほど劇場的な徴兵儀式が続いている背景には、宗教(願掛け)、家族の絆、地域差、そして社会の若い世代の変化が、ぎゅっと圧縮されて詰まっている。タイ人スタッフから「来週くじです」と言われたら、休暇申請を快く受け、戻ってきたら「お疲れさま」と返す。日本の感覚で「気の毒に」と過剰に同情するより、本人が割り切って受け止めるリズムに合わせるほうが、たぶん自然である。
2026年4月の地区別の事例については、ウタイターニー、ノンタブリー、アーントーンの各記事に切り分けてあるので、興味があれば個別に追える形になっている。

